電車で痴漢されるぼっちちゃん.ss
この世の地獄。それが満員電車だ。人口密度がおかしい。酸素が足りない。私のパーソナルスペースなんてものは、改札を通った瞬間に消滅した。
普段なら絶対に避けるこの時間帯、どうしても外せない用事があったせいで、私は今、見知らぬ他人と密着するという拷問を受けている。ピンクのジャージが、周囲のサラリーマンのグレーのスーツに埋もれていく。押しつぶされる。物理的にも、精神的にも。
つらい。帰りたい。まだ出発すらしていないのに、もう帰りたい。
電車の揺れに合わせて、人の波がうねる。私の体は流木のように翻弄され、ドア付近の壁際へと追いやられた。背後は壁、前方はおじさんの背中。左右も人、人、人。逃げ場なんてどこにもない。
息を潜め、存在感を消す。私は石ころ。私はアスファルトの染み。誰の視界にも入らない、ただの背景モブ……。そう自分に言い聞かせて、この苦行が過ぎ去るのを待っていた、その時だった。
ぐにゅ。
……え?
背後から、脇の下にするりと何かが入り込んできた。
最初は、鞄か何かが当たったのかと思った。満員電車だ、不可抗力はよくあること。そう思ってやり過ごそうとした。けれど、その「何か」は、明らかに意志を持って動いた。
私の脇をくぐり抜け、前面へと回り込んできたそれは──手だ。
え、手? 誰の手?
思考がフリーズする間もなく、その手は私の胸を、鷲掴みにした。
「ひっ……!?」
喉の奥から、情けない悲鳴が漏れそうになるのを必死で飲み込む。
嘘でしょ。嘘だと言って。
心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出す。
これって、もしかして、いやもしかしなくても、ち、ちちち、痴漢……!?
ありえない。私みたいな陰キャのゴミクズに痴漢なんて、都市伝説だと思っていた。いや、対象がおかしいでしょ。周りにはもっと綺麗なお姉さんとか、可愛い学生さんとかいるのに。なんで私? ピンクのジャージだから目立った? 新手の珍獣ハンター?
パニックで思考が支離滅裂になる。
逃げなきゃ。声を上げなきゃ。「やめてください」って言わなきゃ。
でも、声が出ない。
喉が張り付いたように動かない。ここで大声を出して、周りの注目を集めることへの恐怖が、痴漢への恐怖と拮抗してしまっている。ああっ、私のコミュ障がここでも発動するなんて! 自意識過剰が邪魔をして、身動きひとつ取れない。
その間にも、手は容赦なく動く。
ぐにっ、むにゅ。
掌全体で包み込むように、そして指先で確かめるように、揉まれる。
ひいいいいっ! やめてええええ!
体が強張る。石のように固まることしかできない。
恐る恐る視線を落とすと、自分の胸元が見えた。ピンクのジャージ越しに、誰かの手が私の肉を弄んでいる。
揉まれるたびに、私の胸は情けなく形を変える。ぐにゃりと歪むジャージのシワ。
ああ、見ないで。そんな、私の無駄についた脂肪の塊なんて、触ったって何もいいことないですよ! 中身は承認欲求モンスターの陰キャですよ! 触ると不幸になりますよ!
心の中で、犯人に対して必死に謝罪する。
ごめんなさい、こんな駄肉を揉ませてしまってごめんなさい。感触悪くてごめんなさい。私の体積が皆さんのスペースを奪っている上に、こんな手触りの悪い物体を触らせて、本当に申し訳ありません……!
羞恥心で顔が沸騰しそうだ。
耳まで熱い。今すぐ爆発して消滅したい。
周りの人はスマホを見たり、虚空を見つめたりしていて、私のこの窮地には気づいていない。幸いにも、私は壁際で、犯人は私の背後にいるらしく、その手元は私の体と前の人との隙間に隠れて見えない角度になっている。
そこだけは助かった。
もし誰かと目が合って、「あ、あのピンクの人、揉まれてる」なんて思われたら、私はその場でショック死して、二度と人として転生できない呪いにかかってしまう。
いや、助かってない。全然助かってないから!
手は執拗だ。
ただ触れているだけじゃない。明らかに、質感を確かめるように、リズミカルに揉んでいる。
親指が食い込む。手のひらで押し上げられる。
んひぃ……っ。
変な声が出そうになって、口を真一文字に結ぶ。
なにこれ、何のプレイ? 公開処刑?
早く、早く次の駅に着いて。頼むから。
永遠にも感じる時間を、私は唇を噛みしめて耐えた。
それにしても、この手。
恐怖と羞恥の合間に、ふと冷静な感覚が割り込んでくる。
指先が、妙に固い。
皮膚は柔らかいのに、指の腹の部分だけが、カチカチに硬化しているような感触。
これは……タコ?
どこかで、知っているような感触な気がする。
ギターを弾く人の指……?
いやいや、まさか。そんな偶然あるわけがない。
きっと、何か指先を使う仕事をしている変質者に違いない。陶芸家の変質者とか、ボルダリングが趣味の痴漢とか。
ああもう、なんでもいいから早く離してぇ……!
私のライフはもうゼロです……!
***
私は、軽い後悔と共に電車に揺られていた。
まさかこんなに混んでいるなんて。これなら一本見送ればよかったかしら。
お洒落なカフェで限定スイーツを食べて、その写真をイソスタにアップして……なんて優雅な休日を計画していたのに、出だしからこれだもの。
人波に押され、揉まれ、私の体は意図しない方向へと流されていく。
「きゃっ……」
急ブレーキがかかり、ドッと人が雪崩込んでくる。
体勢を崩しかけ、とっさに前の人の背中にしがみつくような格好になってしまった。
ごめんなさい! と心の中で謝りながら、顔を上げる。
目の前にあるのは、見覚えのあるとんでもなく鮮やかなピンク色。
あ、これ。
この独特なオーラ、猫背、そして何よりこの派手なジャージ。
後藤さんだ。
ひとりちゃんだわ!
こんなところで会うなんて奇遇~! と声をかけようとしたけれど、あまりの混雑に口を開くスペースすらない。
というか、私の体勢がかなりまずい。
後ろから押された勢いで、私の両腕がひとりちゃんの脇の下に滑り込んでしまっている。まるで、後ろからハグをするような格好。
うわ、これ完全に不審者ムーブじゃない私!?
ごめんねひとりちゃん、すぐに離れるから……!
そう思って腕を引こうとした瞬間、電車が大きく揺れた。
「っ!」
バランスを保つために、とっさに指に力が入る。
掴んでしまったのは、ひとりちゃんの胸だった。
やわらかっ。
それが、第一印象だった。
マシュマロ? いや、もっと密度のある、高級な低反発枕のような。
驚きのあまり、離そうとした手が止まる。
え、すご。
ひとりちゃん、普段猫背だし、ジャージのせいで体のラインが全然見えないから気づかなかったけど……。
こんなに、大きかったの?
私の手のひらに収まりきらないボリューム。
無意識のうちに、確かめるように指を動かしてしまう。
ふにゅ、と沈み込む指先。押し返してくる弾力。
……大きい。
そして、形が良い。
嘘でしょ。私、スタイルにはそこそこ自信あったはずなんだけど。
ふと、自分の胸元に視線を落とす。
そこにあるのは、慎ましやかな膨らみ。決して無いわけではない。無いわけではないけれど……。
今、私の手が触れているこの豊満な果実との間には、越えられない壁がある。
格差社会だ。
こんなの、神様の不公平よ。
ひとりちゃんったら、普段あんなに自信なさげにして、自分のことゴミだのプランクトンだの言ってるくせに、こんな凶器を隠し持っていたなんて。
なんか、ちょっと……いや、かなり悔しいかも。
私の指先が、嫉妬心からか、勝手に動く。
ごめんねひとりちゃん。私だってこんなことしたくないのよ。でも、これは社会勉強なの。この感触を脳に刻んで、いつか私もこうなるためのイメージトレーニングをする必要があるのよ。
ひとりちゃんの背中が、びくっ、と震えたのが分かった。
あ、怯えてる。
小動物みたいにプルプル震えてる。
「私だよ、喜多だよ」って言ってあげなきゃ。
そう思う理性が3割。
「いや、このまま気づかれないのをいいことに、もうちょっとだけこの格差を検証させてもらおう」という黒い感情が7割。
ごめんね、ひとりちゃん。
許せないわ……この大きさは、ギルティよ。
私は、無言のまま、少しだけ力を込めてその柔らかな双丘を揉みしだいた。
指先が沈む。うわぁ、本当に柔らかい。お餅みたい。
ギターが中々上達しない時の失望感も、この感触なら癒やされるかもしれない。
ひとりちゃんは相変わらず固まったままで、されるがままになっている。
耳が真っ赤だ。可愛い。
抵抗しないのをいいことに、私の手つきは少し大胆になっていく。
脇から手を回しているから、ちょうど胸の重みを支えるような形になる。
ずっしりとした重量感。
これが……持てる者の重み……。
くそう、羨ましい! その脂肪、私に少し分けてちょうだい!
心の中で毒づきながら、私は駅に着くまでの間、ひとりちゃんの胸を堪能し続けた。これは事故なの。そう、不可抗力な事故なのよ。
***
プシュー……。
気の抜けた音と共にドアが開く。
地獄の釜の蓋が開いた。
私はほうほうの体でホームへと転がり出た。
膝が笑っている。心臓が痛い。
やっと、やっと解放された……。
生きた心地がしなかった。私の尊厳はもうボロボロだ。
でも、とにかく犯人の顔を見なくては。警察に通報するかどうかは別として、どんな奴だったのか確認しないと気がすまない。
震える足で踏ん張り、私は意を決して振り返った。
そこにいたのは。
「……え?」
赤色の髪。
お洒落な私服。
そして、キラキラとしたオーラを放つ、見知った顔。
「あ、あの……き、喜多ちゃん……!?」
私の目玉が飛び出しそうになる。
え、なんで? どうして喜多ちゃんがここに?
ていうか、私の後ろにいたのって……。
喜多ちゃんは、少しばつの悪そうな、でもどこか満足げな表情で、てへっと舌を出した。
「あはは……ひとりちゃん、奇遇ね~」
「き、奇遇ね~じゃないですよ!? え、まさか、さっきの……?」
私は自分の胸を隠すように腕をクロスさせる。
喜多ちゃんは、両手を合わせて申し訳なさそうに(でも目は笑っているように見える)身を乗り出した。
「ご、ごめんねひとりちゃん! 違うの、わざとじゃないの! 電車が揺れて、バランス崩しちゃって……そしたら、たまたま手が……」
「た、たまたまって……! あんなに、ぐにぐに、揉んでたじゃないですかぁ!」
顔から火が出る。
人前でこんな会話、死ぬほど恥ずかしい。
でも、犯人が知らないおじさんじゃなくて、喜多ちゃんだったという事実に、安堵感がどっと押し寄せてきて、逆に怒りが湧いてこない。いや、怒るべきところなんだけど。
「ごめん! 本当にごめん! でもね、ひとりちゃん……」
喜多ちゃんは私の距離を詰め、小声で囁く。
「あまりにも感触が良くて……つい、出来心で」
「ひいいっ!?」
私は後ずさる。
「な、なんてことするんですか! 私みたいな陰キャの脂肪なんか触ったら、喜多ちゃんの手が腐りますよ!? 呪われますよ!?」
「そんなことないわよ!」
喜多ちゃんは真剣な顔で私の両肩を掴んだ。
「腐るどころか、極上の感触だったわ……! ひとりちゃん、あんな素晴らしいもの隠し持ってるなんてズルいわよ! 同じ女子として、敗北感ですごいんだから!」
「は、敗北感……?」
「そうよ! おっぱい大きいし、柔らかいし……はぁ、思い出しただけで悔しいっ」
喜多ちゃんは悔しそうに地団駄を踏んでいる。
えぇ……。
よく分からないけど、褒められている、のだろうか。
私のコンプレックスまみれの体が、あのキラキラ陽キャの喜多ちゃんに羨ましがられている?
あの、学校カースト最上位の喜多ちゃんに?
「そ、そうですか……? す、素晴らしい、ですか……?」
「ええ、素晴らしいわ。国宝級よ」
喜多ちゃんの力強い言葉に、私の口角が勝手に緩んでいく。
だらしなく、ふにゃふにゃとした笑みがこぼれる。
「うへ、うへへ……。国宝級……そ、そうですかぁ……へへ……」
チョロい。私は自分がチョロすぎることを自覚した。
でも、悪い気はしない。
さっきまでの恐怖はどこへやら。
痴漢じゃなかった。おじさんじゃなかった。喜多ちゃんだった。
その事実だけで、今の私には十分すぎる救いだ。
「……でも、次はちゃんと声かけてくださいね。心臓止まるかと思いましたから……」
「うん、ごめんね。あ、お詫びに何か奢るわよ! 駅前のカフェ寄って行こう?」
「あ、はい……じゃあ、メロンソーダで……」
喜多ちゃんに腕を引かれながら、私は改札へと向かう。
まだ胸には、喜多ちゃんの指先の感触が、ほんのりと残っているような気がした。
やっぱり、あの指先の固さは、ギターを沢山練習している証だったんだな。
そんなことを思いながら、私たちは人混みの中を、少しだけ軽い足取りで歩き出した。