「右翼」と古典的自由主義の併存について――最小構成の思想を目指して

@Kongyokongyo / 更新: 2026/02/27 12:01

一回纏めて知見を出したかったので。

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「右翼」と古典的自由主義の併存について――最小構成の思想を目指して

はじめに

筆者は自分を「右翼」だと思っている。ネトウヨ出身であり、そのことに誇りを持っている。同時に、自分の主張の実質は古典的自由主義に極めて近いことも自覚している。

この二つは矛盾するように見えるかもしれない。本稿はその併存がなぜ成立するのか、そしてなぜ筆者が「古典的自由主義者」ではなく「右翼」を名乗り続けるのかを整理する試みである。

何に反対しているか

筆者のスタンスは、多くの対象への「反対」として表れる。列挙する。

和製リベラルに反対する。日本で「リベラル」を名乗る勢力の多くは、原義のリベラリズム――個人の自律と自由の擁護――からかけ離れている。彼らの「リベラル」は単なる党派的ラベルに過ぎない。

ラディカルフェミニズムの現在の姿に反対する。ここで言うラディカルフェミニズムとは、例えば女性政治家が自らの意志で保守的立場をとったとき、それを「家父長制の内面化」として否認するような態度を指す。女性の政治的選択を「女性」というカテゴリで上書きし、自分たちの枠組みに収まらない個人を排除する。これは女性の自律の擁護ではなく、その否定である。

一部のLGBT運動の過激化に反対する。トランスジェンダーの権利を擁護すること自体に異論はない。しかし「シスジェンダーが存在するだけで構造的抑圧が生じる」式の主張は、個人をセクシュアリティのカテゴリに還元し、そのカテゴリに加害者の役割を押し付けるものであり、受け入れられない。筆者の立場はむしろ「ジェンダー論排除的トランス擁護」とでも呼ぶべきもので、ジェンダーというカテゴリ装置そのものを問題視する。ジェンダー論それ自体が、それが批判しているはずの悪しきジェンダーの再生産に加担しているのではないか。

反woke系英米保守に反対する。woke批判それ自体には共感するが、その反動として安易にミソジニーや排外主義に回帰する態度は知的怠惰でしかない。パッケージ化されたイデオロギーを無批判に購入している点で、彼らが批判しているwoke勢と鏡像関係にある。

言語ゲーム型の知識人的右翼に反対する。例えば「女嫌いの女体好き」のような修辞――性欲とミソジニーを意図的に混同する言語ゲーム――は、知的に見えるだけで何も生み出さない。衒学によって問題の本質を覆い隠す。

一つの原理、複数の適用

上記の「反対」は一見バラバラに見えるかもしれないが、すべてを貫く共通原理がある。

個人の自律を、カテゴリの政治に優先させる。

フェミニズムの問題は、個人をジェンダーカテゴリで上書きすることにある。LGBT運動の一部の問題は、個人をセクシュアリティカテゴリで断罪することにある。ジェンダー論そのものの問題は、カテゴリという装置が個人を箱に入れることにある。各陣営の知的怠惰の問題は、パッケージ化されたイデオロギーを思考停止で受け入れることにある。

つまり筆者のスタンスは消去法の寄せ集めではなく、一つの原理の複数の適用である。そしてこの原理は、古典的自由主義の中核そのものにほかならない。

なぜ「右翼」を名乗るのか

ここで疑問が生じる。実質が古典的自由主義なら、なぜそう名乗らないのか。

理由は複数ある。

第一に、日本の政治言語空間において「自由主義」は事実上リベラル=左派の語彙として回収されている。「自由主義者です」と名乗った瞬間に、和製リベラルの陣営に分類されるリスクがある。思想史的には右派と古典的自由主義の併存は全く正常であり、ハイエクやフリードマンの系譜を想起すれば明らかだが、日本の文脈ではそれが通じにくい。

第二に、筆者にとっての「右翼」は思想体系というより態度である。既存の権威的言説に対して「それはおかしくないか」と問い続ける構え。パッケージ化されたイデオロギーへの不服従。ネトウヨ時代に自分で文献を読み、自分のスタンスを組み立てた原体験がその核にある。

第三に、そしてこれが最も本質的な理由だが、「古典的自由主義者です」と名乗ること自体が、また一つのパッケージに自分を収めることになる。どこかの陣営に回収され、既製品の思想として消費される。「右翼」を名乗り続けること自体が、パッケージ化の拒否として機能している。

ポパーの影と自己批判

ここまで書いてきて、一つの不都合な事実に触れないわけにはいかない。

筆者の原動力の相当部分は、知的不誠実への激昂である。閉じた思想体系が個人を抑圧することへの怒り。これは本質的にポパー的な衝動だ。「開かれた社会の敵」への戦い。

しかし、筆者が「サヨク」と呼んで批判してきた人々もまた、ポパーの系譜の末裔である。「開かれた社会」の理念から出発し、それが硬直化して現在の姿に至った。

つまり筆者は、自分が批判しているものと同じ水源から飲んでいる。

この矛盾は解消できない。そして、解消すべきでもないと考える。激昂を捨てて「冷静な自由主義者」になれば原動力を失う。激昂を全面的に正当化すれば、それこそラディカルフェミニズムが辿ったのと同じ退化の道を歩むことになる。

矛盾を自覚しながら併存させること。 それが、筆者にとっての「最小構成の思想」の現時点での到達点である。

レッテルは便利だ。便利だからこそ、かつてのフェミニズムがそうであったように、本来の射程を超えて暴走しうる。この文章自体が、その暴走の萌芽を含んでいるかもしれない。

そのことを記して、本稿を閉じる。